100th.浅間ミーティング Spirits Of Motorcycle Over 50years Ago. and…

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ついに100回。50年です。私は、第1回から参加しているわけではありませんが、それでも40年以上のお付き合い。よくまあ、ここまで来たもんだ。今回はけじめの会ということもあって、参加400名弱のうち、スピリットのエントリー数25台(キャンセルと特別参加で台数は変わらず。)

個人的な印象ですが、今回特徴的だったのは、特に眼を引く1台と言うよりも、いつもの会員さんがいつものバイクで久しぶりにやってくる。と言うパターンが多かったこと。ライダーとオートバイはセットなんですね。そして浅間は会員さんたちがいてなんぼ、みんなで積み上げてきた50年なんだなあと痛感しました。


みずほ自動車 ナイトリーキャブトン RBH 350cc 1954年式 京都から。

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キャブトンの創業は1923年。戦前からの会社ですね。当時の発売元は大阪・中川幸四郎商店。「キャブトン」という名はComeAndBuyToOsakaNakagawa頭文字を並べたものだそうで、意外とつまらない4ストローク、350cc、サイドバルブ車が主体でした。第二次世界大戦が始まって、オートバイの生産は中断せざるを得なくなるけど、戦後いちはやく復活、1946年(自転車に取り付けるエンジン。「ビスモーター」を発売します。本格的にオートバイの生産を開始。英車風の4ストロークエンジン。350ccから600ccの並列二気筒OHVエンジンを主力として、最盛期の1954年当時には国内第3位の生産量を誇るまでになるけれど、エンジン始動が名人芸だったり。また、トラブルが多くてツーリングには工具が一抱え必要だったりと、品質はアウトだったようですね。それでもブランドイメージがたかかったのは、広告に力を入れていたからかもしれません。

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映画ゴジラのスポンサーだったらしく主演の宝田明の後ろにカレンダーが映り込んでいたり。ポスターには映画には出て来ないサイドカー仕様や、キャブトンの文字がデカデカと乗っていたりしてます。車両はどちらもRBHに見えるのですが?本編にもよく出てきますので、chっくしてみるのも面白いかもしれません。

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陸王 陸王RQ 750cc 1954年式 愛知から。

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陸王は。メーカーとしても製品としても、成功したとは言えません。最初から最後まで時代遅れでした。RQは初代ROの改良型。陸王の代表的なモデルで、現存数もわりと多いといわれています。でも、サイドバルブ750 ccで、変わらぬ22馬力。手動進角、手動油圧ポンプ。前進3段ハンドシフト、フットクラッチは変わらず。この、戦前のハーレーから引き継がれた独特の操作系から、「陸王は乗りこなすだけで難しい。」と言われ、ビジネスとしては成功していません。

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でも根強いファンは多く、このオーナーさんもこのRQが4台目とのこと、メーカーは無くなってもバイクは生き残り続けるんですね。今回のデモランはこんなところを通ります。参加台数が多いため、ショートコースを1周だけ。みんな砂被りで見物です。


伊藤機関工業 IMC IMC-K 250cc 1954年式 愛知から。

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伊勢湾周辺に多くあったオートバイメーカーにこだわり、自身ミュージアムも運営されているオーナーさん毎回珍しいオートバイを見せていただいています。そんなオーナーさんが、不動車3台を合体。三個一で仕上げたのが今回のIMC-K。エンジンは前出のキャブトン製MJ型の250ccを使用。トライアンフのTバードを参考にしたと言われるデザインは、モーターサイクル誌の1954年読者スタイルコンクールで1位となるんですが。

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1955年みずほ自動車製作所が、外部へのエンジン供給をやめちゃい、独自に250MJを発売してしまったため、わずか1年で生産を終えてしまう。結果レア中のレア車になちゃいました。


BMW R26 245cc 1957年式 群馬から。

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BMWが1956年から1960年にかけて製造した.単気筒シリーズ3兄弟の真ん中アールズフォーク排気量247ccの空冷4ストローク単気筒OHVエンジシャフトドライブ、前後輪ともにスイングアーム式のアールズフォークを採用。生産期間中に30,236台が製造されました。当時の250ccクラスとしては世界最高級と評され、今でもコレクターの間で高い人気を誇るモデルです.


みずほ自動車 キャンペーンキャブトン RTS 600cc 1956年式 京都から。

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前出のRBHと同じキャブトンの600cc版、外観はそっくりなんですが、実は前出の、BMWの時、それまで高湿度だった天気が急に好転。気温が上がって湿度がとんと下がりまして、それまで快調に回っていたエンジンが急に駄々をこねはじめます。おかげで2だいともに押しがけ。旧車は奥が深いですね。


ホンダ BENRY  JC58 125cc 1957年式 岡山から。

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毎回珍しくも楽しいバイクを持ち込んでくれるオーナーさん。今回はベンリーです。当時のホンダはネーミングがはっきりしていて125ccまでがベンリー、そこからはドリームでした。J型も年1953年の88.7cc3.8馬力始まって125cc。9.8馬力のJC58まで全部ベンリーでした。

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対してドリームはD型から始まってどちらかというと高級スポーティーなイメージのシリーズでした。イメージ的にはベンリィーは便利な実用車。と言うイメージでした。皮肉な事にそのれをぶち壊したのがかの名車CB92。ベンスパ125ccと言う事になります。そこからはゴチャゴチャになっちゃったんですね。確かにべんりじゃないよね


東京発動機 トーハツ PKD125cc 1958年式 北海道から。

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ご自身のプロフィールにもある様に、オーナーさんは北海道ミーティングの理事さん、浅間には初参加です。ご自身のプロフィールにもある様に、オーナーさんは北海道ミーティングの理事さん、浅間には初参加です。現在は船外機のメーカーとして有名な「東京発動機」,トーハツは浅間火山灰レースのウルトラライトクラス125ccではトップコンデンターの1つでした。創業は1922年。排水ポンプのメーカーとしてスタート。小型ガソリンエンジンを製造できる国内唯一のメーカーとして戦時中は車両無線機用の発電機を作成。戦後は消防ポンプのメーカーとして復活。世間で軍用の発電機エンジンを自転車に取り付けた物が売れ始めたので、(張本人がホンダで使ったのが元を辿って行くと作ったのが東発というのが面白いよね。トーハツが原付では無くオートバイとしてフレームから作成したのは、1953年の98cc2ストローク短気筒、PK53が最初。その後PK55型へと進化1956年に発表した空冷2ストローク単気筒123ccエンジンを搭載するPK56は、トーハツのベストセラーモデルとなり、国内シェアも35.5%に達するほどの勢いでした。このPKD581958年に発売された発展型となります。ところがその頃から二輪車需要が頭打ちになり、会社の売上の80%を二輪車が占めていたトーハツには大打撃。結局オートバ事業から撤退してしまいます。

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トライアンフ T110  650cc 1958年式 徳島から。

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かの故小川文信氏が仕上げたトライアンフボンネビルT110です。現オーナーのところに来たのは2011年。トラのボンネと言えば当時の最高峰。多くのメーカーの目標でもありました。実に美しいデザインに最高のエンジン。ホンダなどは、ボンネを越える車輌を作るためにわざわざプロジェクトを立ち上げた程でした。その牙城は日本製のマルチシリンダーが登場するまで揺るぎないものでした。そのため、稼ぎ頭の北米市場を失い。1時は倒産状態になってしまいますが、さまざまな投資家の手を経てなお、トライアンフの名は残っています。


BSA  C15star  250cc 1960年式 千葉県から。

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オーナーさんは浅間の名会員のお一人今回はBSA初のエンジン/ミッション遺体型のC15での参加です。BSAとは、「バーミンガム小型武器取引協会」(Birmingham Smal Arms Trade Association)と言うのが社名の由来。他の多くのオートバイメーカーとは異なり、誰か1人、または家族の強い個性から生まれたわけでは無く元々高性能な小銃の産地として知られていたバーミンガムで、鍛冶屋と機械加工業を営んでいた14人の職人による「組合」から生まれました。それも、オートバイの製造をメインとしていた訳ではなく、小銃をメインとした、製造組合でした。それが20世紀に入ってからオートバイ製造に参入し、世界最大のオートバイメーカーに成長していくことになります。1922年にスローパーエンジンの元になる350ccエンジンを発表。信頼性が高くトライアル、ヒルクライム、スクランブルレースで多用されます。

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英国では1961年に「教習生法」が導入され、その期間は、250ccエンジンが、Lプレート(初心者表示プレート)を装着した教習生が同乗者なしで運転できる最大排気量のバイクでした。1961年には公道走行可能なスポーツモデルが追加され、トライアルやスクランブル用のオフロードバージョンもラインナップに加わったものの、出力はわずか15 bhp (11 kW)では、パワー不足のため、1960年代に英国に導入され始めた、より洗練された日本製のオートバイ(ホンダC71CB72など)の敵じゃないよね。BSAは1951年にのブランドを取得したことで、250ccBSAC15150ccのテリアをベートライアンフにした200ccのトライアンフ・タイガーカブが派生。エドワード・ターナーがBSAのオートモーティヴ部門のトップとなり、1958年にBSAのはそれまでのエンジンとギアボックスが別々の部品ではなく一体となった内蔵式ギアボック(ギアボックス一体型)エンジンのコンセプトを発表。BSAC15「スター」は初めてのギアボックス一体型モデルであり、前モデルのBSA・C11と比べて信頼性と経済性が改善されます。C11の後継車種として、C15は完全に再設計されたフレームと250ccのエンジンを備を積んだけれど。このバイクは、故障続出。1967年に250ccC15は、後輪の脱着が容易で12V電装を備えたB25スターファイア/C25バラクーダに引き継がれていきます。歴史の長いメーカーは文章も長くなるね。


ホンダ C105 54cc 1961年式 茨城から。

今更名前伏せてもしょうがないほどの有名会員、水戸の御老公。老いて益々元気です。こいつはC100を黄色いナンバーにするため、ボアアップしたものです。

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基本車種として自転車取り付け型のF、スポーツ製の高いドリーム、実用性の高いベンリイと、3本柱が確立されたかに見えたホンダだけれど、免許制度や、法改正、ライフスタイルの進歩もあって、新しい基本車種となるべき車両の開発が必要になって来た。そこで開発されたのが、モペットとスクーターの中間にあるようなバイク、アジア圏の未舗装路でも、女性にも受け入れられ、極力メンテナンスフリーなバイク「スーパーカブ」。極力少ない部品点数で作られたエンジン。スカートでも乗りやすく、エンジン本体からチェーンまで殆どの機械部品はカバーされ、ユニット化された電気系統。自転車に乗っているような大きなタイヤ。という構成のスーパーカブは、最初からドンピシャリの大当たりで、1960年以降年間生産台数50万台を下回ることはなく、1963年には年間最高生産台数889,005台。一番売れなかった1973年でも469,732台とホンダの屋台骨になったんだね。多分スーパーカブがなかったら、ホンダのレース活動や、意欲的な新型の開発(失敗作もあったけど)もF1も無かったと思う。最初のスーパーカブ、C100から現代に至るまで、基本コンセプトは変わっていないんだよね。これは凄いことです。C100のエンジンはOHV短気筒。49cc4.5ps。実に簡素で安く単純、つまり壊れない。リーディングリンクのフロントサスペンション、ステアリングポストから太いパイプがスイングアームに向かって伸び、鋼板プレスのフレームにつながる。電気系統やエアクリーナー、ガソリンタンクはフレームの内側に、エンジンは2本のボルトでマウントされる。ステップはエンジン下にマウントされ、キャブとマフラー、マウントボルトを外しステップをつかんでよいしょと持ち上げれば、かんたんにエンジンが下ろせる。とにかくシンプルな構造。開発途上国での雑な扱いでも大丈夫、(実際工場現場の方から、売ってから買い換えるまでノーメンテナンスでも動くものを作っている。と聞いた事があります。)一方で50ccとはいえ60km/hで走れるから、ヨーロッパの都会でも使える。これなら売れないわけはないよね。「YOU MEET THE NICEST PEOPLE ON A HONDA」というコピーの広告をバイク雑誌じゃあ無い一般誌に載せて、革ジャンの乱暴者というイメージを払拭しつつアメリカでも販売開始。その後セルが付いたり、OHVになったりしながら、多くのバリエーションモデルを生み出して行きます。1次期、排気ガス規制の関係で原付の最小排気量が上がって50ccの精算をやめたら、物を知らないメディアが、原付消滅!なんて騒いだけれど、どっこいちゃんと作ってます。

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1部拙著「駆動」より引用しています。)


ホンダ C110 49cc 1964年式 栃木から。

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数多く発売されたスーパーカブのバリエーションモデル。スーパーカブの翌年に発売されたのが、C110スポーツカブ。基本的なレイアウトはカブと一緒だけれど、新設計のプレスフレームにハンドクラッチの4速(初期型は3速)マニュアルギアボックス。(カブと同じ遠心クラッチの3速のC111と言うモデルもあります)排気量は変わらないけど、圧縮比を8.5から9.5に上げて4.5psから5.0psにアップしています。1961年には、免許制度、法定速度の変更に合わせて、54ccに排気量をアップされたC115(C105Cが発売されます。当時の販売価格で2,000円ほど高かったのだけれど、二人乗りが可能で、速度も出せるから好評でした。現代のOHVカブ乗りの間でも、法定速度30km/hでは使いにくいので、こいつの部品を使って54cc化し、黄色いナンバーを取っている人も沢山います。OHVカブのシリーズは、その後も沢山のバリエーションが作られ、1963年の86.7ccC200で終了。以降全てOHCとなります。


川崎J1―R 81.5cc 1964年式 静岡より。

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高性能を謳う車種を持たなかったカワサキが1960年代の最新技術であったロータリーディスクバルブ吸入方式を採用し、技術力の高さを広める目的で開発されたのが85J182 ccという排気量でありながら他車のフルサイズ90 ccエンジンに見劣りしない7.5 ps/6,800 rpmを発揮し、最高時速は90 kmに達した。デビュー前のモトクロスレースにおいてもブリヂストンやスズキを相手に上位を独占するなど、性能の高さを遺憾なく発揮し、1964年の発売以来、カワサキ車として初めてのバックオーダーをかかえるほどの人気車種。この成功によりロータリーディスクバルブの技術に自信を得たカワサキは、本車両を基に各種派生車種を開発することになります。これをベースにモトクロッサー仕様に改造し、全日本で優勝した車両をベースにロードレース仕様に改造したのがこの車両n。純粋なレーシングモデルでレースを楽しんでおられます。


ホンダ C65 63cc 1965年式 埼玉&茨城から。

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前出のC105をOHC化して4.8馬力にまで馬力をアップ。C65OHCの先行試作型。C70へと続くのですが、浅間にはカブマニアが多いので、ボロが出そうなので車両の話はこのくらいで。

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今回のオーナーさんは、どちらも浅間関係者。先行しているのは場内誘導で皆さんお馴染みのHさん。追いかけるのは元理事長のNさん。お二人とも水戸藩カブのお仲間でもあります。


ホンダCB450 K0 444cc 1965年式 富山から。

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ホンダCB450 セニア 440cc 1973年式 東京から。

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ホンダCB 500T 500cc 1974年式 富山から。

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今回ホンダ初のDOHC二気筒がシリーズで揃いました。1960年代初頭は、アメリカやヨーロッパで大排気量車を求める声が高っていました。ホンダは世界一を目指、ドリームCB450開発をはじめます。目標としたのは当時評面の高かったイギリス車のなかでも、各車中の名車といわれ。とりわけ人気の高かっトライアンフボンネビル。この計画は企業戦略として急を要する挑戦する意味を込めてコンドル作戦と名付けられます。今見るといささか時代がかって大袈裟ですけどね。ホンダは1959年にTTレース、次いで翌年からGPレースに参戦し、レース界ではそれなりに認めてもらえる存在にはなっていました。それらの技術を生かし、市販車として60年にCB72を投入し、さらに61305ccに排気量をアップさせたCB77を投入しますが、残念ながら絶対性能では、トライアンフ・ポンネビルT120Rにはかなわなかった。同じ性能ならエンジンは小さい方が良いけれど当初の300ccや350ではどうにもならず、650では意味がないと言うことで、450cc,DOHC,CVキャブに落ち着きます。私が初めてバラしたエンジンが、これ。ヘッドから油漏れを起こし、ホンダのSFと言う直営のサービス工場に持ち込んだところ、そこのメカさんが「学生さんで金がないなら教えてやるから自分でやりな。」と言われて沼にハマりました。この3台のエンジン、排気量やミッションが違いますが、外観はほぼ同じ。試作の350は4輪のNコロのエンジンのベースになりました。


ホンダ CB250 エクスポート K0 249cc 1968年式 埼玉から。

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1960年から製造販売されたCB72スーパースポーツをフルモデルチェンジした250ccの第2世代モデル。フレームはセミダブルクレードルへ変更。搭載エンジンも空冷4ストローク2バルブSOHC 2気筒という形状こそ共通だけど、特徴的だった前傾25°シリンダーはほぼ直立とした上で排気量249cc、最高出力30ps/10,500rpm・最大トルク2.14kg-m/9,500rpm、始動方式はセル・キック併用、トランスミッション5段マニュアル、リンク調整式バックステップは廃止され、ハンドルもフラットからアップタイプに変更されました。1968415日発表。外装はCB72/77のイメージを引き継いだモデルです。CB250エクスポート/350エクスポートは、CB250と同時発表燃料タンクを海外向け輸出仕様と同じ容量12 Lのストライプカラータイプに変更し、メーター類を2眼式としたバリエーションモデル。エントリーにあるK0というのはこの最初のモデルだよ、ということだと思われます。タンクとグラフィックが違うだけなんだけど、とても素敵なデザインで、よい意味でホンダっぽくないと思うのは私だけ?世代的に乗っている友人が多かったのですが、転倒でヘッドカバーが割れ落ちて、ロッカーアームが見える状態になったのですが、販売店まで普通に走っていたのには驚きました。




ホンダ CB750 K0 736cc 1970年式 埼玉から。

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長いこと浅間に通っていると、バイクを見ただけで誰のバイクかわかる様になってきます。同じ車種で同じ色でも。あ、これはあの人のだってわかっちゃう。TさんのK0もそんな1台。多分普段は別のバイクに乗っていらっしゃるのだろうけれど、私にとってはTさんといえばこのK0です。さてそのHONDA DREAM CB750 FOURだけど。コンドル作戦CB450は不発。メインマーケットとされた北米市場での評判は決して芳しくなく、より大きな排気量でゆったりとオートバイを楽しみたいよと言われてしまう。じゃどうするべえと模索しているところにトライアンフ社が排気量750ccクラスの空冷4ストローク3気筒エンジンモデルの白バイを宗一郎さんがスイスで見かけちゃった物だから1967年に本モデルの開発を決定。(本当かな?)当時の同社はスーパーカブの爆発的人気により2輪車生産数は世界一となっていたが、本モデルで質と量を備えたオートバイメーカーになる計画を立て、ライバルとして上述したトライアンフのほかBMW・ハーレーダビッドソンなどに対抗できる性能と信頼性の確保から、決められたスペックは、車体はダブルクレードル式を採用し、前輪をテレスコピック、後輪をスイングアーム。搭載されるCB750E型エンジンは、空冷4ストローク4気筒2バルブSOHCとし、736ccから最高出力67ps/8,000rpm・最大トルク6.1kg-m/7,000rpm。変速機は左足動式5段マニュアルトランスミッションを搭載する。エンジンオイルの潤滑方式はドライサンプ。またエキゾーストマニホールドならびにマフラーは本モデル最大の特徴ともなった4本出しとし、公称最高速度200km/h0→400m/12.4秒とされた。あの頃は自主規制前ですから。自主規制を作る羽目になったのもこいつのせいなんだけど。クランクケースやオイルパンは当初完全量産化を考えておらず、専用の設備もなかったことから砂型鋳造を行っていたが、発売後に受注が殺到し日産25台の生産計画が100台以上に膨れ上がりバックオーダーを抱えるまでになったため、約7,400台ほど製造した19699月から設備を更新して完全量産のダイキャスト金型による生産へ切り換えられた。これが「砂型」の由来ですね。この車両は1970年式なので、K0としては最終生産モデルになります。


ホンダ CB750 K1 736cc 1972年式 新潟から。

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今回やっちまったのオーナーKさん。浅間では公式サイトの管理人やカメラマンとしてお馴染みの顔です。50年間忠実な足として走っており、その間足回りと腰上のオーバーホールを1回ずつ実施しているとのことですが、フレームはやっぱりへたります。私が以前普段使いしていたCB500Fourでさえ歪んできていて、突然意外な挙動をして焦ることがありました。さらに巨大なエンジンを積んでいる750では驚かされることはあるんでしょうね。バイクの写真を撮る中でセンターで立っている大型のバイクの全輪と後輪の角度が微妙にずれているのをよく見かけます。

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K0との変更点は、シート形状。チェンジ操作時のショック・ノイズの軽減。キャブレターをピストン直引きからリンク機構を持つ強制開閉式に変更。オイルタンクの形状変更、サイドカバーを小型化、同時にエンブレムデザインを変更。メーター形状ならびにカバーを樹脂製からガラス製へ変更。フロントブレーキキャリパーおよびマスターシリンダーの塗色変更。エアクリーナーケースの変更。テールランプステーの取り付けボルトを2本から3本に。というところです


ヤマハ XS1 653.3cc 1970年式 茨城から。

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70年代北米戦争のヤマハの答えがスポーツ650XS1であった。スリムでコンパクトな車体や軽快なフィーリング、手頃な価格などを目標とした。また、警視庁の白バイとして採用されたこともありました。1970年31日発売。1969年の東京モーターショーにて発表されたXSシリーズ最初のモデル。車両型式256。カラーバリエーションはキャンディーグリーンのみ。当時の新車価格は338千円。デザイン面においてはGKデザイン(現・GKダイナミックス)の石山篤が担当し、実に美しいバイクです。が、発売当初からオイル漏れなどのトラブルに悩まされ、仕様変更はなんと2500回以上。そのため同じ車名でも製造された時期によって部品などの違っていたりします。またカウンターバランサーなどが無くフレームにも直付けだから、見た目によらず振動がすごかった。実際乗っていると振動でハンドルグリップが太くなっていく感じがしたものです。


MVアグスタ MVAGUSTA350 349cc 1973年式 東京から。

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アグスタ一筋50年。浅間の名物男、築地の棟梁ことTさん。実は拙著「駆動」で棟梁を統領と書き違えており、顔を見るなり「俺は大統領選じゃねえ!」と怒られちゃいました。ごめんなさい。イタリアのオートバイはメカ好き貴族の「お道楽」から始まるケースがやたらと多いんだよね。それも大抵飛行機がらみ。アグスタもしかりで、1907年 にアグスタ伯爵家のジョバンニ・アグスタが製作した飛行機がイタリアで初飛行に成功したのがそもそもの始まり。1927年にジョバンニが死去すると、妻のジョセフィーナ・アグスタが後を継ぎ、第二次世界大戦の軍需景気に乗って会社が大発展します。大戦終結後、敗戦国となったイタリアは航空機の生産を禁止され、モペッドから発展したオートバイの生産を主力とする子会社MVアグスタ(メカニカ・ヴェルゲーラ・アグスタ)を設立します。代表者はジョバンニの長男ドメニコ・アグスタ。(ヴェルゲーラってのは会社のあった地名)1948年にレース部門を設置、ライバル社から有能な人材を引き抜き高性能化を進めます。またジャコモ・アゴスチーニ(MVアグスタのマシンで世界タイトルを13獲得)、ジョン・サーティース、マイク・ヘイルウッド、フィル・リード、タルクィニオ・プロヴィーニ等々、きら星のようなライダー達を迎え、数々の勝利を収める事になって。当時、世界GPに挑戦する我がホンダの最大のライバルにとなります。打倒アグスタ!ところであるとき浅間帰りの土砂降りの関越道。棟梁の後ろについて走ったことがあるのですが、エアクリーナー無しのファンネルから、」大粒の雨が吸い込まれていくのがはっきり見えていて、スロットルを開ける度に大量の雨を吸い込んで、失火しながら「ボー」という音が聞こえてくる。閉じると収まって「バー」、高速ではずっと「ボー」、「バー」、「ボー」、「バー」。雨に濡れながら大笑いしました。おかげで楽しい帰宅でした。もう若くないんだから、無理をしないで、何時までもこのアグスタと一緒に走り続けて欲しいと、心から思っています。


番外編 メグロ 500Z 1950年式

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目黒製作所は1924年に東急目黒線不動前駅近くで創業、「鈴木鉄工所」として、1925年に企業化。1926年に立地に合わせて「目黒製作所」を名乗るようになりました。太平洋戦争が始まると、被災を避けるため栃木県那須郡烏山町(現・那須烏山市)に工場を移します。(現在烏山には目黒のミュージアムカフェがあります)当初は自動車修理とオートバイ(トライアンフ)の部品販売を行っていましたが、1932年にエンジンの製作を開始、1937年、最初のメグロ号Z974ストローク、単気筒、OHV500 cc)を発売し好成績を残します。大戦の激化とともにオートバイ製造は中断、航空機の部品を製作するようになりますが、戦後は再びオートバイ事業に戻り、免許制度の後押しもあって250ccシリーズが大ヒット。メグロの250は、オート三輪で有名な「くろがね」の創業者が設計。S2ではこれまでの3速に代わり、4速ロータリーミッションが初採用されます。ロータリーミッションはメグロの発明だったんですね。戦前から続いた短気筒500cc OHVZシリーズも好評で、一時期はSシリーズとZシリーズ合わせて年間15,000台を生産し、浅間火山レースでもセニアクラスでメグロRZ1位、2位、4位、5位を独占するなど、日本のトップブランドでした。でも世の中は小型車ブーム。ホンダに代表される戦後のメーカーに押されて業績が悪化。川崎航空機工業(当時)に吸収されてしまいます。

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映画「ゴジラ−1.0」で主人公が乗っているのがこれ、一般誌では陸王と書いてある本が多いので、違うと言って自慢しましょう。


MOTO GUZZI LE MANS NAKAOKI Spl.

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1966年、経営危機の中モデルの整理に入っていたモトグッチに、イタリア国防省や警察から競争入札の知らせが来ます。それを見事落札し、その後のグッチのトレンドとなる90°Vツイン、シャフトドライブが誕生します。最初のVツイン、V7は好評で、アメリカのハイウエイパトロール用としても導入され、カリフォルニアとして一般市販モデルも大成功します。そして、850ccの最終型がスクエアヘッドのLE MANSⅢと言う事になるのですが。アサマミーティングクラブの古いメンバーにとっては、初代理事長・故中沖満氏の最後のバイク。黄色いグッチというイメージが焼き付いていると思います。オリジナルのLE MANSⅢを、今は亡き某レーサーのデイトナ遠征の頃からの氏のであり、名メカニックであるJ氏の手によるカスタム。小柄であり、すでに病魔におかされていた氏に合わせたフルカスタムです。何回か実車に触れる機会があったのですが、非常に軽量でコンパクト。サイズだけ見ると、400いや250と言っても良いほどでした。おデブの私に氏はよく「シートレール細いんだから、お前は乗っちゃダメだよ。」言ってましたっけ。こっそり乗ったけどね。ドライブ特性も、直線番長だった氏に合わせたセッティングで、実に気持ち良く吹け上がります。軽い車体とも相まって、トラクションが気持ち良い。そういえば氏は高速コーナーの話しかしなかったなあ。氏が雑誌連載していた「鉄と心とふれあいと」は、私にとっての偉大な教科書です。もし氏がこの一連の雑文を読んだらなんて言うでしょうね?鼻で笑われるような気がしますが、読んでほしかったなあ。ご自身の余命を自覚されてからの行動は見事でした。ご自身のコレクションは、それぞれ適切な方に引き取られています。今回100回に合わせてJ氏が発掘し快調に走ってくれました。ところで一緒に展示してある赤いツナギは中沖さんの還暦に合わせて会員さんの有志が寄付して造ったものです。当時の浅間は言い出しっぺが自分でやることになっていましたので、お手伝いさせていただきました。

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